自分を微細に砕き虚空に還る

自分を微細に砕き虚空に還る



裏庭のチシオ紅葉が紅く染まりました。

周りの木々が常緑なので、こうした葉がアクセントとなります。

さて、素直に今ある幸せが実感できない人いますよね?

「今は大丈夫だけどいつかどうなるんだろう?」「今お客さん来ているけどこれからは分からない」

等と言った目の前にある幸せを、幸せと捉えられないという人です。

その症状の原因は言うまでもなく煩悩であります。

煩悩があることにより、この空の世界で本来ありもしない「我」や「物」に執着が働き

苦しみが生まれ、目の前の折角のご馳走や楽しい時間が、台無しになってしまいます。

勿体ないと言ったらありゃしない。

そのご馳走を作ってくれた人も、素直に「美味しい!!」といって食べてもらったらどんなに嬉しいか

「不景気でさぁこのご馳走もいつまで来れるかわからん」などと、どんより暗くグチグチ愚痴を言いながら

食べてもらっても、何となく嫌ですよね?

もうお分かりのようにこうした執着が働いている人は、いくらお金があっても、御馳走を目の前にしても

旅行に言っても、楽しむ事は出来ません。

どこ行っても、何食べても、同じことを言っているのでしょう。

そして、周りの人は当然ですが、あんまりいい気分がしませんから、次第に人はさーっと

引いていき、さらにドツボにはまっていきます。

勿論ですが、原因は自分にあります。

世の中わからない事が沢山ありますけど、その中でも意外とわかってないのは

一番近くの自分の心だったりします。

自分の肉体は鏡でも覗けばそこに映りますが、それでも「心」と言うものは見えません。

弘法大師空海様のお言葉に

近うして見難きは我が心 細にして空に編ずるは我が仏なり

とあります。

我々の心は本来は清らかであるのですが、煩悩によって

心が汚されてしまい、本来の清らかな姿を正しく認識できないのです。

しかし、妄執に囚われてしまうといくら「清らかです」と言っても

それを素直に受け取れなくなってしまい、自暴自棄になってしまい

無常の風に身を任せてしまうのです。

それでは大変勿体ない。

我々はこの世に生まれて来ることも、本当に幸運な事で

今を生きていることこそ、何よりの幸せなのです。

では、我々の心はどんな様子かと言うと、目の前に既に広がっているではありませんか。

例えば自然、森なんかに入りますとそこに一切の無駄はありません。

互いに尽くしあい、それぞれが命を燃やし、時が来れば朽ちて土になり、その地から芽が生え

様々な命の支えになっているのです。

「それが何?」とわかりにくいかもしれませんが、その様は我々の本来の心の姿と言う事です。

我々は支え合い生きて行くべきですし、それが本来出来るはずなのです。

否、既に沢山の命に支えられて生かされているのです。

しかし、妄執に囚われて、物事が正しく見つめれなくなり、本来の心の姿がわからなくなってしまい

「我」なんて言うありもしない物が確立され、様々な場面で邪魔をするのです。

我々が身を置く虚空の世界は、自分も他人もない、空(からっぽ)なのです。

それを自覚したうえで、この世界に足を踏み入れないと、不具合が生じる事は間違いないのです。

我々の目標は今生での成仏であります。

仏とは虚空と同化した存在であります。

そこには自分も他人もありませんから、一切のこだわりがありません。

従って、何にでもジョイント出来るのです。

そういう人は幸せな時間を増やせて、善い人生ですよね?

「でも、もう心が汚れきっちまった……」と悩む必要はありません。

煩悩はどんなに心を汚しても、悟りを求めようとした瞬間から

その心に皆備わっている悟りを求める菩提心(仏になろうとする心)という種がありますので

その種に直結し、心を汚していた泥(煩悩)を糧に大きな花を咲かすことが出来るのです。

虚空に触れ自浄を知り、自身を微細に砕き、この世界に遍満しましょう。

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[ 2014/11/20 12:51 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

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