動機は二通り

動機は二通り



夕日を見つめる弘法大師。

何を思うのでしょう。

さて、「動機」という言葉がありますが、人が動く理由は二つあります。

一つは「何かの為」という目的を持っている場合です。

もう一つはその行動その物が目的としている場合です。

前者は非常に分かり易いですね、「あぁ、これだからこうしているんだな」と理解できます。

しかし、後者の場合は「なぜ、何も得られないのに行動してんの?」「もっと実のなる事をしたら?」と

理解を得られません。

ただ、どちらがその方便を長く続けていられるでしょう?

言うまでなく、後者の方ですね。

だって、結果を得られなくても、その行動その物が目的なのだから、続けて行けるのです。

目的の為の行動だったら、報われなければ、やってられないでしょう?

そして、目的の為の行動ばかりをしていると、何か得られないと動けない、そして止まる癖がつきやすいです。

そうすれば、心も濁りだし、言葉や行動も当然濁り出すのです。

そうした人が、この世で幸せな生活が送れるのでしょうか?

この世は無常で、どれも固定した何かが存在しているわけでなく、

すべての物が止まることなく動き続けているのです。

我々の正体は方便そのものなのです。

この自覚があれば、時代がどうなっても、姿や形にこだわる事無く

その時代時代に合った姿や形となり、時代にフィットしていけるのです。

もし、この自覚が無ければ、物や姿にこだわりだし、時代錯誤な事を平気に言えてしまうのです。

ですが現実には特に仕事をして行く上では、目的や見返りを考える事も大切な事です。

それが出来なければ、生活できませんからね。

従って理想としては、生活のどこか一部、何なら一瞬でも「損得勘定」や「目的」を考えない

方便を習慣付ける事が理想ですね。

例えば、朝夕お仏壇や神棚に一心に祈る、とか一心に玄関の掃除をするとか

何か生活の中にそうした、「一心」に方便その物を目的とした事を行う事により、一瞬かもしれませんが

自分への執着から離れる事が出来るのです。

自分への執着が離れるという事は、自分ではなく、もちろん他人でもないその虚空の世界を遊覧出来るのです。

そうすれば、冷静になれ自分を客観視できて、「あぁあそこ言い過ぎたなぁ」とか「こうするべきだったなぁ」と

穏やかな心を取り戻せて、いい決断が出来るのです。

これを徐々に積み重ねて行けば、損得勘定に縛られる事無く、行動その物に意味があると見いだせて

フットワークが軽くなり、心の曇りが晴れ、余計な妄想や時には無常の鬼すらも我々を捕まえる事は出来ません。

仏さんが我々を無条件に救う姿は、凡夫には理解できません。

それを仏さんにいかに問いかけても、理解できません。

常識や固定観念や目的すらに縛られず、方便を究竟とするお方の言葉は、

どんなに分かり易くして説いてもらっても、それを実際に自分も行わなければ本当の意味で

理解したことになりません。

仏さんの言葉や行動を本当に理解したいのであれば、自身もその通りにしていく事です。

理屈ではない世界が、彼岸なのです。

何もその悟りの世界は死後に辿り着く場所ではなく、今生で度す事は可能なのです。

その為には、資本主義と言う現実世界に染まりきらず、僅かな時間でもいいので

方便を究竟とする何かを習慣付け、自身の法体をその虚空の世界で癒し

「心(しん)」を忘れない様にしましょう。

そこで打って付けなのが「写経」です。

写経は仏様の教えのお経を一心に書き写すことを目的とした、仏道修行です。

当山は毎月第三日曜日に執り行っていて、今月は21日(日)です。

受付け時間は午後1時から4時までで、この間の都合のいい時間にお越しください。

日曜の午後、静かな書院で、一心に写経をして、虚空の世界を遊覧しましょう。

皆さんのご参加をお待ち申し上げております。

スポンサーサイト
[ 2014/12/14 11:27 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック:

この記事のトラックバック URL
http://ookusajiouji.blog.fc2.com/tb.php/1049-94762e16