ありのままの~

ありのままの~



切り干し大根の煮物。

干した大根は甘みが増します。

さて、「仕事は自分で作るものだ」と言いますが、本当にそう思います。

仕事が無いと言いますが、無いことは無いのです。

よく「田舎で何もない」と言いますが、何もない事はなく、目の前に自然豊かな景色が「有る」のです。

逆に、「この商品売れない」「昔はたくさん売れた」と悩んでいる人は、

確固たる「人」や「物」が存在していると信じてやまないのです。

何にも無いと、思っている人や確固たる物が存在している人は

あるのに無い、または無いのにあると言う夢の中で生活しているのです。

別に寝てないよと思われるかもしれませんが、そういう意味ではなく妄想に駆られているのです。

なぜ物に固執することが、夢想の世界から抜け出せないのかというと、この世は無常だからです。

人も物も常に変化し続けているのです。

それなのに、時代に合わない事や物を人に提供しようとしても、受け入れられるはずがありません。

逆に何にも無いと嘆いている人は

「これは俺の仕事じゃない」とか「そんな事出来ない」と

やはり「我」が弊害となって、行動の妨げになっているのです。

目の前にすべきことがあるのき、わからない、出来ない状態です。

それらを解決するのが

今年話題になりました「ありのままの~」の歌のように、真実を受け入れることが大切になるのです。

これを仏教語で「如実自知心」といい先ほどの歌のように、ありのままの自分を知ることが大切になるのです。

しかし、ありのままの自分を知ることは、辛いのは確かです。

力のない自分、まずい状況それを受け入れるのは勇気も入ります。

ただ、真実から目を逸らしていても、一向に良くなる気配は無いのです。

そして「無い」物を「有る」「有る」物が、「無い」と真実が

転倒して心に映る事ほど、気の毒なことはありません。

幻想追いかけているようなものですから。

そして、その夢の中で有りもしないものを追いかけている間も、酷いことに

時間は刻一刻と過ぎていくのです。

お金は勘定するけど、時間は勘定しないのは、無常の自覚がなく時間は無限だと思っているのでしょう。

しかし、お金も時間もとてつもなく尊いのです。

したがって、この世は無常であり、虚空だあると観念することが大切になるのです。

虚空とは空っぽ、何もないということです。

人も物もそして自分も認識が有るだけで本来無いのです。

その自分という実在しない存在を、確固たる存在のように拠り所とすることは危険極まりないのです。

ですから、空じて我を消すことが大切になるのです。

そうすると、こだわりが無くなれば、すべき事が生まれてくるのです。

それが、その人に求められていることであり、特性でもあります。

もちろん好きなことをすることもいいですが、そういうのは余裕が有る人がすればいいのです。

余裕が無いのに、そんなことしていたらどうにもなりません。

この世は尽くし合いの世の中で、言い換えればの価値と価値の交換であります。

自分自身の方便がいかに理解されるのかが、大きな問題になるのです。

「大日遍くを照らし」と申します様に、仏様は分け隔てなくすべての人に慈悲の光を当てられているのです。

その光とは「命を育む光」であります。

この世を空じるとは、捉え方によっては否定し、絶望感を味わうかもしれませんが

そこから沸々と力強い命が動き出すのです。

それこそ、本物であります。

夢想ではありません、しっかりと目覚めたのです。

悟りは目覚めとも言うのです。

こうした混沌とした時代、ありもしない我を拠り所とするか、それとも

万物を創造する命の光を照らす、仏法を拠り所とするのかは

自由ですが、正しい道は明白です。

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[ 2015/01/06 17:52 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

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