アリもダメです

アリもダメです



アリが自分の大きさの何倍もあろう、セミの羽をせっせと運んでいました。

そういえば、2日前に立秋を迎え、暦の上では既に秋ということで

アリも越冬の準備を今のうちからせっせと執り行っているのですね。

…キリギリスは今頃何しているんだろう?

さて、皆さんもご存知のアリとキリギリスの話。

夏場の暑い時に、キリギリスは歌って遊んでいて、アリは越冬のためにせっせと働いました。

やがて、冬が来て、餓死寸前のキリギリスがアリに食べ物を恵んでもらうように頼みに言ったら

アリは「夏場に歌ってたんだから、踊れば?」とその懇願を一蹴して

キリギリスは餓死してしまうというのが大まかなあらすじです。

諸説有り、改変されている部分があるかもしれませんが、大体こんな感じです。

この話を聞くとまず、「だから、アリのようにせっせと働かないといけないんだ」

「キリギリスは死んで当たり前」何なら「そら見たことか!ざまみろ」という捉え方出来ますね。

確かに、遊んでいたキリギリスは準備を怠りました。

しかし、一方のアリの対応はどうなんでしょう?

確かに、アリは夏場に働いて、その餌はアリに所有権はあります。

ただ、目の前に餓死寸前のキリギリスを冷酷にも見殺しにしたのも事実です。

アリは自分さえばいいのは、利己的でもあるのです。

確かに、何もしなかったキリギリスはもちろん悪いです。

話の中でアリは夏場に遊んでいるキリギリスに働いている事をあざ笑われているのです。

これがもし、キリギリスと夏場出会ってなかったらどうなってたでしょう?

アリによっては、「ああ大変ですね少しですがどうぞ」と食べ物を分け与えていたかもしれません。

そうしたキリギリスを見たことによって、「何だあいつは!」「今に見てろ!」と

自我に執着しすぎて、目の前の困窮者をも見捨てるほど、冷酷になったのです。

…気持ちはわかりますが、これもこれで良いんですかね?

皆アリになれば平和なのでしょうか?

そうとはとても思えませんね。

これは、おとぎ話の中の話ですが、我々人の世界でも言えることですね。

「努力」することは大切です。「一生懸命」行うことも大切です。

しかし、それが誰かの上に立とうとか、見返してやろうとか、そうした恨み辛みが働いた

行いだったらどうなんでしょう?

「俺はこんなに努力したぞ」「あいつは努力してないダメな奴だ」と思ったり、これを吹聴しだしたら

この世の真理から外れることになるので、結局自分も不幸になってしまうのです。

この世は無常で、虚空で、自分という物は本来は無いのです。

それに、執着するという事は、何かしら不具合が出ても仕方ないのです。

「怒り」と言うのは力にはなりますが、我々が目指すべき仏の世界とはかけ離れた世界に

行くだけになるのです。

慈しむ光が遮られた世界は、嫌ですよね。

偏った価値観にすべてを当てはめられてしまう。

そもそも、「キリギリスは何もしていない」という価値観に疑問を持ちます。

これは、罰として「草取り」「掃除」「雑巾がけ」「便所掃除」「丸坊主」も同じくです。

キリギリスはアリのように黙々と勤勉に働けないかもしれません、しかし

美しい音楽を奏でる事が出来るのです。

『NO MUSIC,NO LIFE』という言葉があるように、今や音楽は我々の生活に欠かせないものです。

我々真言宗の法要でも仏の徳を称える讃を唱え、仏楽器を鳴らします。

法要とは仏の世界を表現したものなので、仏様の世界では心地よい讃や音楽があちこちで

響いているのでしょう。

つまり、こうとも考えられます。

キリギリスの歌声や音楽は、アリの作業効率をアップさせる為に必要な余興や娯楽ではないか?と

否、既に余興や娯楽を、人によっては超えて生活必需品になっているかもしれません。

つまり、「音楽や歌なんて仕事であるか」という偏った決めつけが、世界を貧しくしていくのです。

反対に「掃除」や「草取り」が罰という決めつけも。

…アリの黙々と勤勉に働くことには敬意を持ちますが、、、冬場巣の中で何するんですかね?

勤勉なアリが集まって地中で何するんですかね?また仕事でしょうか?

それならそれで、アリ達の息抜きや娯楽がなければ、いけないんじゃないでしょうか?

そんなに根から勤勉なアリばかりで無いでしょうから。

(これは事実で、私の知り合いにアリの研究をされていた方がいるのですがよく働くアリは全体の2割だそうです)

だったら、冬場キリギリスに音楽や踊りなどの余興をしてもらえば良いのではないでしょうか?

そしたら、巣の中も楽しく、明るくなりませんか?

「仕事はこういうもんだ」と自我による怒りの炎によって、慈悲の心まで焼き尽くすと

貧しい世界になってしまうのです。

そんな、ギシギシした世界なんて、一度何かがズレたらもうどうにもなりません。

ということで、何が仕事で何が遊びなんて今の時代もはや分別できません。

「携帯をボケッと見ている」と昔は「遊んでいるな!」と怒られたかもしれませんが

大事なお客様と交信をしているのかもしれません。

だからこそ、人に構わず、取り敢えず何でも一生懸命に行うしか無いんでしょう。

遊んでいたか、そうでないかは、結果が知らせてくれます。

だから、「俺はやっている」「俺は苦しんでいる」のに「あいつは楽している」というのは思い込みで

皆それぞれ何かをやっているのです。

それを楽しんでやっているか、何かを恨み辛み僻みながらやっているかの差です。

結果はどっちが良好でしょう?

結果は過程であります。

もちろん、キリギリスの楽観主義過ぎるのもいけませんが、アリの様に悲観過ぎても

自我が肥大して、卑屈になって、貧しくなってしまいます。

その相反する価値観に囚われない道、中道を選ぶことが自他共にベストなんでしょう。

その為に、縁起の法則に則り、今自分が「すべき事」「出来る事」「したい事」を混ぜ合わせ

他を僻むことを忘れるぐらい没頭しましょう。

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[ 2015/08/10 17:00 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)