自然(御仏)は皆を生かしてくれる…

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山茶花が咲き出しました。

もうじき冬が来ますね。

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虫にとっても、これから花が少なくなるので、ありがたいオアシスですね。

…そう思うと、ここ数年地蔵寺の周りでは、色んな種類の鳥を見ることが多くなりました。

人が自然をどんどん侵害して、追われてきた生き物が、こうして自然がまだある場所に

集まってくるのでしょう。

真言宗のお寺は町にある都会的なお寺よりも、山などの自然に密接した場所にある事が多いのです。

密接というか、自然の中に寺が溶け込んでいるといった方が正しいかもしれませんね。

その分いろいろと大変なことはあるかもしれませんが

こうして自然に囲まれた環境にお寺があると、人も含め、こうして様々な生き物が生かされ

皆が生かされるのです。

仏教は特定の「誰かが」「何かが」生かされるものではなく、本来すべてが活かされる教えです。

ですから、こうして自然の中にお寺が有るということは、つまり、人も自然(御仏)の中の一部であり

優位性を抱いてはならないという、謙虚さを学ぶためでしょう。

悟りとは言い換えれば謙虚の極みと言えます。

自然を何処かに追いやり、そこで人同士の世界を作ってそこで暮らせば

人以外の小さい生き物に目を触れる事が無くなります。

つまり、そうなれば自我が肥大し偏狭的な考えになりやすく、自身も他人も生かすことが

できなくなるのです。

と言うことは、知らず知らずのうちに、重い業、殺生を行っているのです。

それで、本当に豊かになるとは思えません。

…とは言うもののこの資本主義の社会で合理性を持つことは大切ですが

無駄を省いていく中で、大切なことまでも省いてしまったら、何もなりません。

お寺の鐘の音はその余韻がいいのです。

余韻、余白などの、空間と言うのはこれからの時代より大切になると思うのです。

なんて言っても「人」ですから。

間が悪ければ、いい言葉も良い行いも、相手の気を害すのです。

例えば、「葬式で笑顔でいる」など、笑顔でいることは大切ですが

その状況でそれは改なければなりません。

ですから、「自分がこうしたい」という自我を働かすのではなく、今の間で自分は

どうするべきかと利他的でなければ穏やかになりません。

つまり、自我が肥大した人が集まった世界では、喧々囂々となり、争いごとは無くならないでしょう。

ですから、こうして自然を変に人と分断せず、むしろその中でどうやって生きていけばいいのかと

「間」を考えるべきでしょう。

これを「智慧」と言います。

…自然溢れる場所へ行くと、心が癒やされるというのは、自然、つまり御仏が

すべての衆生(人間を含むすべての生物)を無条件に生かしてくれるからだと思うのです。

自然に囲まれたお寺はそうした人が、真に豊かに生きていく「智慧」を

表していると思うのです。

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[ 2015/10/29 14:08 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)