「そこ」と「ここ」



時折、否日々お世話になるコンビニ。

本当に便利で、そして楽しいです。

ハロウィンになればハロウィンの、クリスマスになればクリスマスの

節分になれば節分のそれぞれ仕様に変わり、

そして、常に新しいサービスも提供され飽きません。

…「密教はほとんど仏教じゃない」そんな事言われる方が時折おられますが

その一つの理由に、密教はお釈迦様がされなかった「呪術」を取り入れたことに

よるものだと思います。

お釈迦様はそうした祈祷など現世利益的なものはあまり好まれずに

煩悩に対しても否定的でした。

しかし、時代が変貌するとともに、そうした煩悩が無くならない事に苛まれたり

人々の願望はどうしようもなくなり、そうした渇望を潤すべく、呪術による祈祷が必要になったのです。

「煩悩即菩提 ぼんのうそくぼだい」という言葉がありますように、煩悩は確かに人を惑わす悪しきもの

「でも」ありますが目的と方法によっては、菩提つまり悟りに至るまでのエネルギーでもあるのです。

つまり、呪術などの現世利益的な要素を取り入れた密教は人々の欲望をよく理解して

それに寄り添うべく、進化した仏教なのです。

以前「上求菩提 下化衆生」という言葉を紹介させて頂きましたが

我々は自分の悟りの道を追い求めなければなりません。これは上求菩提に該当すると思います。

しかし、それを目指すだけでなく、今目の前にいる人や困っている人の為に

救済すること(下化衆生)も、それ(上求菩提)と同じぐらい大切なのです。

ただ、下化衆生だけでもダメなので、自身の悟りの道も磨かなければなりません。

と言うのは、無常であるからです。

それは当然人々の渇望もそれに伴い変貌していくので、そうした事を敏感にキャッチするためにも

勉強しなければなりませんね。

だから、ざっくり言えば、悟りは「そこ(上)」と「ここ(今)」なのです

常に修行をして、自身の技を磨き上を目指しつつ、今人々が現実的な問題に直面している

不満、不安によりそう行いが大事になるのです。

お釈迦様も弘法大師様も、それぞれ修行をされ、彼岸(汚れの無い悟りの世界)に渡りましたが

それぞれ慈悲行と菩薩行を此岸(我々のいる迷いの世界)に戻られ行われていて

弘法様においては今も修行されておられるのです。

目指すべきはそこ(彼岸)であっても、ここ(此岸)での救済活動も大切なのです。

ですから、時代が進み現実的に考えれば皆を「そこ」に導こうと考えるならば

呪術も必要であったのでは無いでしょうか?

わかりやすく言えば、今のスマートフォンですね。

スマホはネット、カメラ、メール、電話、ゲーム、音楽…色んな物が入っています。

しかし、別に「電話さえできればいいよ」という方はそれを持たなくてもいいのです。

ですが、今の時代スマホを非常に多くの方が持っているという事実は有るのです。

ですからこれを、つまり「ここ」をどのように見るかということです。

自身は携帯電話なんかなくても、そこ(彼岸)に渡れたとしても、「ここ」にいる

人々までは渡すことができませんね。

現実的な視点と常に上を目指す求道心を併せ持つことが大切になるのです。

どちらか片方だと、不具合は何か出ますね。

…最近のコンビニの発展は目覚ましい物があり、本当に殆どのものがあり助かり、ありがたいです。

おまけに季節ごとのイベントのものがあり楽しいです。

しかし、ここに何でも有るということは、周りは何にも無いということでしょうか?

少し悲しくもあります。
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[ 2015/11/10 12:02 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)